栃木弁の漫才で人気を博しているけれど、実はどこの大学出身なの?と気になるU字工事の福田薫さんと益子卓郎さん。コンビ結成から20年以上経った現在も、抜群のコンビネーションで多くの人に愛され続けているお二人です。
お二人はどこで出会い、どのような経緯でコンビを結成したのでしょうか?また、大学時代はどのような学生生活を送っていたのでしょうか?栃木弁漫才のきっかけとなったエピソードも気になりますよね。
そこで今回の記事では
- 二人が通った大学と学部について
- 高校時代の出会いからコンビ結成までの感動的なエピソード
- 大学生活と栃木弁漫才スタイル確立への転機
主にこの3つに迫っていきます。
特に注目したいのは、福田薫さんが7~8人に断られた末に益子卓郎さんに声をかけてコンビが誕生したという奇跡的なエピソードです。マツコ・デラックスさんも「奇跡みたいな感じね」と感動したこの出会いの物語は、まさに運命的なものでした。
ぜひ最後まで読んでいってください!
それでは、早速本題に入っていきましょう!
U字工事のお二人が通った大学と学部について

U字工事のお二人は、いったいどこの大学で何を学んでいたのでしょうか?
福田薫さんと益子卓郎さんは、共に桜美林大学に進学し、それぞれ異なる学部で学んでいました。
桜美林大学での学部と専攻

U字工事のお二人が通っていた大学は、東京都町田市にある桜美林大学です。福田薫さんは経済学部経済学科、益子卓郎さんは経営政策学部ビジネスマネジメント学科をそれぞれ卒業しています。

桜美林大学は1966年に設立された私立大学で、国際的な教育環境で知られています。お二人が在学していた当時も、多様な学部があり、それぞれが興味のある分野で学びを深めることができる環境が整っていました。
栃木から東京への進学

お二人とも栃木県出身で、栃木県立大田原高等学校の同級生でした。高校卒業後、地元を離れて東京の大学に進学するという決断は、当時の若い二人にとって大きな挑戦だったことでしょう。
栃木県大田原高校の同級生として知り合う
引用:株式会社デューズ
特に興味深いのは、福田さんが先に桜美林大学の自己推薦で合格し、その後益子さんを誘って同じ大学に進学させたというエピソードです。この時点で既に、お二人の強い絆が感じられますね。
同じ高校から同じ大学へ進学するって、きっと心強かったでしょうね!
高校時代の出会いからコンビ結成までの感動的なエピソード

お二人の出会いからコンビ結成まで、どのような経緯があったのでしょうか?
福田さんと益子さんは高校の同級生で、福田さんが7~8人に断られた末に益子さんに声をかけてコンビが誕生しました。
運命的な高校時代の出会い

お二人の出会いは栃木県立大田原高等学校時代に遡ります。同じクラスで、「福田」と「益子」という苗字の頭文字から出席番号も近く、席も隣同士だったことから自然と親しくなったそうです。
この偶然の配置が、後の日本のお笑い界に大きな影響を与えることになるとは、当時は誰も想像していなかったでしょう。出席番号順という単純なシステムが、運命的な出会いを生み出したのです。
コンビ結成の奇跡的なエピソード

コンビ結成のきっかけは、福田さんが高校時代に漫才の面白さに目覚めたことでした。福田さんは漫才をしたいと考え、クラスの友人に声をかけ始めました。しかし、多くの人に断られてしまいます。
福田さんは後に「面白い順に声をかけた」と振り返っていますが、7~8人目くらいに声をかけた益子さんが「いいよ~」と軽く引き受けたことで、U字工事というコンビが誕生しました。この時のエピソードを聞いたマツコ・デラックスさんは「奇跡みたいな感じね」と感動していたそうです。
この話に、マツコは思わず「ホントの話聞いてるのよね?」と問いかけ。「奇跡みたいな感じね。それでこんな長いこと続けられているわけだから」と感心しきりだった。
引用:スポニチ
マツコさんはU字工事さんが昔から大好きなようで、地道な活動や栃木に地に足がついていることなど活動の姿勢に対して感心をしているようです!
大学進学での絆の深まり

高校卒業後、福田さんが先に桜美林大学の自己推薦で受験して合格し、益子さんを誘いました。益子さんは別の大学を志望していましたが、福田さんに「卓郎も桜美林にしろ、いいから受けろ。一緒の大学行くべ」と説得され、受験して合格したという経緯があります。

友達想いの福田さんと、それに応える益子さんの関係性が素敵ですね。
大学生活と栃木弁漫才スタイル確立への転機

大学時代はどのような生活を送り、現在の栃木弁漫才スタイルはいつ確立されたのでしょうか?
大学時代は町田市で共同生活を送りながらお笑い活動を続け、浅草キッドからのアドバイスで栃木弁スタイルが誕生しました。
大学生活とお笑い活動の両立

桜美林大学に入学後も、お二人は漫才活動を精力的に続けていました。町田市に住み、町工場でのアルバイトをしながら、毎月お笑い事務所が主催するライブのオーディションに通い、日々ネタ作りに励んでいました。
薫が自転車で俺んち来て、ネタが出来ると薫んちのそばの神社で練習。
そこは近くに境川があって、川の音があるからデカい声を出せるんです。
引用:散歩の達人
興味深いことに、彼らはこのオーディション活動を「就職活動」と呼んでいたそうです。一般的な就職活動とは全く異なる、お笑い芸人としての道を切り開くための活動でした。
共同生活での絆の深まり

大学時代には益子さんが町工場のアルバイトを見つけ、その1ヶ月後に福田さんも紹介で働き始めました。仕事も一緒、住まいも近く、さらには草野球なども一緒に楽しむなど、まさに公私ともに支え合う関係でした。
益子:俺が、新聞広告で『鈴木製作所。初心者でもできます』っていうのを見つけて、連絡してみたら「今来れる?」って。行ったら「今から入れる?」。面接の数分後には機械回してて、しまいに「今日、残業できる?」って。どんだけこの工場、上からあおられてんだって(笑)。
引用:散歩の達人
この時期の共同生活が、現在でも「ケンカらしいケンカはしたことがない」と言われるほど良好な関係性の基盤となったのでしょう。
栃木弁漫才スタイルの確立

転機は浅草キッドのお二人が主催するオーディションに参加した時でした。当初は栃木弁をウリにしていなかったU字工事でしたが、水道橋博士さんから「訛っているんだから出したほうが売れる可能性はあるよ」とアドバイスを受けました。
このアドバイスを取り入れたところ、明らかにライブでのウケが良くなり、オーディションにも合格するようになったそうです。これが現在の栃木弁を生かした漫才スタイルの始まりとなりました。正式なコンビ結成は2000年で、この頃から本格的な芸人としてのキャリアがスタートしました。
現在でもお二人は東京に住みながら、月に5回ほど栃木のローカル番組のロケで地元に戻り、栃木のネタを集めているそうです。地元への愛情と、それを笑いに変える才能が、長年にわたって愛される理由なのでしょう。
地元の訛りを個性として活かすアドバイス、本当に的確でしたね。
まとめ
U字工事の福田薫さんと益子卓郎さんは、栃木県立大田原高等学校の同級生として出会い、偶然席が隣同士だったことから友情を育みました。福田さんが漫才コンビを組みたいと7~8人に声をかけて断られた末、益子さんが「いいよ~」と引き受けたことでコンビが誕生しました。
高校卒業後は福田さんの誘いで共に桜美林大学に進学し、福田さんは経済学部、益子さんは経営政策学部で学びながら、町田市での共同生活とお笑い活動を両立させていました。毎月のオーディション活動を「就職活動」と呼び、真剣にお笑いの道を追求していました。
現在の栃木弁漫才スタイルは、浅草キッドの水道橋博士さんからのアドバイスがきっかけで確立されました。地元の訛りを個性として活かすことで、ライブでのウケも良くなり、オーディションにも合格するようになったのです。
校時代から続く友情と、お互いを支え合う関係性が、20年以上にわたって多くの人に愛され続ける秘訣なのでしょうね!
どうもありがとうございました。
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